学力向上委員会のほぼ毎日日記。千葉市中央区の超小さな塾から脈絡もなく発信中です。
平安時代の流れは以下の通り。この時代は400年間ととても長いので、細かいことにとらわれてアタマを混乱させるより、まずは人物で大きな流れを理解することをおススメする。
桓武天皇
平将門・藤原純友
藤原道長
白河上皇
平清盛
まず最初に平安時代の主役になるのが【①】。【①】の行った政治は、都を【②】に移した、【③】を征夷大将軍に任命し東北地方の征服を行った、【④】宗の最澄・【⑤】宗の空海を保護した、などが挙げられる。彼の目的は国家の建て直しをすること。コレだけ。坊主が政治にクチを出し、挙句の果てに天皇になろうなんてのも出てきたのが奈良時代の末期。それではまともな政治ができない。だからその坊主たちを奈良の平城京に残して都を移した。東北地方の征服も最澄と空海の保護も「国家の建て直し」の観点から見ていくと合点がいくが、その理由は割愛。
次に平安時代の主役になるのが藤原氏。藤原氏は天皇の母方の祖父の地位を利用し、天皇が幼いときは【⑥】、天皇が成人後は【⑦】となって政治を補佐し、補佐しているフリをして自分たちの勢力を拡大するための政治を行った。この政治を【⑧】という。特に藤原道長とその子【⑨】のときが全盛期であった。藤原氏はたくさんの【⑩】を持ち、たくさんの収入があった。この資金力が藤原氏のチカラの源泉。公地公民の崩壊がこの状況を招いた。
天皇の祖父に藤原氏がいなくなれば、天皇は藤原氏に口出しされず自分の思い描く政治ができる。この自由な立場で政治を行った次の平安時代の主役が【⑪】。天皇が引退すると上皇になって政治の舞台から引退するのがフツーであるが、【⑪】は天皇を引退してからも政治を行い続けた。上皇の住む場所が院なので、この政治を【⑫】と言う。上皇に政治を続けられたら天皇はたまったモノではない。自分が国を動かす立場にいるのにそれができない。こののち上皇と天皇の争いが始まることは当然だ。
平安時代の最後の主役は、予想通り始まった上皇VS天皇の戦いで最後の勝利者となった武士の【⑬】。上皇VS天皇といっても実際戦うのは武士。命がけで戦う武士が、戦わない天皇上皇や貴族を差し置いて、政治の主役になるのは当たり前。ココで初めて武士が日本の中心者となるワケである。【⑬】に関しては、神戸港を使用して【⑭】貿易をおこなったことを押さえておきたい。
武士が登場するのは平安時代の最後ではなく、関東地方で勢力を誇った【⑮】と、瀬戸内海で海賊と手を結びチカラを持った【⑯】はもっと早い時期。ただし、彼らの登場は早過ぎた。武士が政治の実権を握るほど、世の中はある意味崩れていなかった。
最後に平安時代の文化につて確認しよう。この時代は、日本の風土や生活感情に合った【⑰】文化が花開いた。【⑱】の発達によって、紫式部の「【⑲】」、清少納言の「枕草子」が生まれた。ほかにもたくさんあるが、全体像をつかむのが本稿の目的なので、以上でおしまい。
①桓武天皇 ②平安京 ③坂上田村麻呂 ④天台 ⑤真言 ⑥摂政 ⑦関白 ⑧摂関政治 ⑨頼通 ⑩荘園 ⑪白河上皇 ⑫院政 ⑬平清盛 ⑭日宋 ⑮平将門 ⑯藤原純友 ⑰国風 ⑱仮名文字 ⑲源氏物語
ウチの塾は過保護。
過保護って悪くとらえられがちだけど、
ホントにそう?
大学受験する高校生は
大学受験するってぐらいだから意識高め。
ほぼ大人さ。
自分で動くよね。
自分で動くぐらいじゃないと大学合格はムリだし。
でもさ、
高校受験する中学生は
今大人になろうとしている最中。
高校受験でその後の人生がちょっとだけ決まる
なんて思ってないし、
言ったってわからない子が多い。
実感がないんだから仕方ない。
だからね、
そんな話もするし
勉強の中身もこまごま指示するし
勉強時間も管理する。
頑張るときとノンビリするときも
コチラが設定するよ。
中学生は過保護にしなきゃ。
もちろん大人な子はいる。
そんな子は別。
自主的に動くのを
コチラが微調整するカンジ。
高校受験の塾で
ウチは放任主義とか
自分で課題を見つけて
取り組む内容を決めさせるとか
自主性を重んじるとかってのは
実態とは合っておらず
塾の手抜きだと思うな~。
710年唐の都【①】を手本に、奈良に【②】が造られた。この年から都が京都に移動するまでの約70年間を奈良時代と呼ぶ。奈良時代は高校受験に関する限り、政治の中心が誰から誰に移っていったとの流れで押さえるより、分野ごとに押さえた方がわかりやすい。
まずは【③】天皇の行った政治について確認しよう。【③】天皇のいた時期は、貴族の勢力争い、伝染病の流行、相次ぐ災害と、世の中は乱れに乱れていた。そこで【③】天皇は、世の中の乱れを仏教のチカラでしずめようとした。国(ザクッと今の都道府県と考えてOK)ごとに【④】と【⑤】を建て、都には【⑥】、その内部には巨大な大仏を造ったのは【③】天皇の考えのあらわれである。
次に土地制度の変化についてまとめていきたい。大化の改新によって成立した【⑦】は、すべての土地と人民を国家の直接支配下に置き、その土地を農民に貸し与え、農民から税をタップリ取るというシステムであった。はじめはこのシステムもうまく行っていた。しかし奈良時代になると、農民はあまりにも税の負担が大きいので自分の土地から逃げてしまったり、人口の増加によって農民に貸し与える口分田が不足したりと、国に入る税が少なくなってしまった。そこで朝廷は743年に【⑧】を出し、開墾してできた農地は永久に自分の財産にしてイイことにした。この法で農地の拡大と納められる税の増加を期待したわけである。貴族や寺院は豊富な資金を使って農民に土地を開墾させ、自分の私有地(【⑨】)を増やしていった。この私有地をたくさん抱えた藤原氏がこののち勢力を拡大し、平安時代の藤原道長の登場につながるのである。第2の蘇我氏を出さないための【⑦】は破綻した。
次は外交面。この当時、唐の文化や制度を学ぶために【⑩】が派遣されていた。【⑩】として唐に渡り一生唐の朝廷に仕えた【⑪】、20年かかって唐から来日し、日本の仏教の発展に力を尽くした【⑫】が有名である。
最後に奈良時代の文化を確認したい。この時代、唐と仏教に影響を受けた【⑬】文化が花開いた。日本で最初の和歌集である【⑭】が有名だ。
①長安 ②平城京 ③聖武 ④国分寺 ⑤国分尼寺 ⑥東大寺 ⑦公地公民 ⑧墾田永年私財法 ⑨荘園 ⑩遣唐使 ⑪阿倍仲麻呂 ⑫鑑真 ⑬天平 ⑭万葉集
飛鳥時代は
聖徳太子の政治
の次に
中大兄皇子の政治
と、ふたつのかたまりで考えるとわかりやすい。
このふたりの政治の目的は同じ。「天皇中心の国づくり」がそれ。この視点で見ていくとさらにわかりやすくなる。
最初に聖徳太子の行ったことを確認しよう。聖徳太子は【①】天皇の【②】になってから、身分に関係なく人材(人材=天皇のためにはたらく役人)を採用することができる【➂】をつくり、役人が守るべきルール(内容=天皇の命令を守りなさい)である【④】を定め、【⑤】として小野妹子を隋に派遣する(目的=天皇の権威化)など、有力豪族であった「蘇我氏中心の政治」から、本来あるべき「天皇中心の国」を取り戻そうとさまざまな政策を進めていった。この当時は聖徳太子が積極的に仏教を取り入れた影響もあって、日本で最初の仏教文化である【⑥】文化が花開いた。世界最古の木造建築である【⑦】がこの文化の代表作品。
次に飛鳥時代の中心になるのは中大兄皇子。中大兄皇子(のちの【⑧】天皇)は【⑨】とともに、645年蘇我氏を滅ぼし【⑩】という政治改革を始めた。すべての土地と人民を国家の直接支配下に置く【⑪】、【⑫】以上の男女に口分田を支給する【⑬】、【⑭】(収穫の3パーセントを稲で納める)・【⑮】(労働をするか布を納める)・調(地方の特産物を納める)の税金制度を整えるなど、再び蘇我氏のような天皇を上回る力を持つ豪族が生まれないよう、さまざまな政策を推し進めた。
【⑧】天皇が亡くなったあと、その後継者を決める【⑯】の乱が起こった。この戦いに勝利したのは【⑧】天皇の弟の大海人皇子(のちの【⑰】天皇)。この【⑰】天皇のときに日本で最古の貨幣である【⑱】が使用されていた。【⑰】天皇の死後、701年【⑲】が定められ、日本は律令によって運営される律令国家となった。
①推古 ②摂政 ③冠位十二階の制度 ④十七条の憲法 ⑤遣隋使 ⑥飛鳥 ⑦法隆寺 ⑧天智 ⑨中臣(藤原)鎌足 ⑩大化の改新 ⑪公地公民 ⑫6 ⑬班田収授法 ⑭租 ⑮庸 ⑯壬申 ⑰天武 ⑱富本銭 ⑲大宝律令
時間をかける。
時間をかければ結果は出る。
バツの問題を見ると
覚えていればマルになるってところが多い。
漢字
部首
(全部ではないけど)国文法
英単語
英語教科書の言い回し
理社の用語
そんなところで落としてる。
授業中に何回か解説して聞いたけど
何回も質問したけど
それでも身につかなかった問題が
バツなんてことはまったく気にしてない。
その子にとっての難問ができないのはOK。
けどね、
時間をかけて覚えれば
点になるところを落とすなんてイヤ。
勝ちのセオリーから外れてる。
毎日声出しながら書きまくって覚える。
テスト前日まで毎日。
社会の用語を書いたあとは
その用語の説明をひとり言しちゃったりしたら
もうサイコーでしょ。
知識が自分の一部になるよね。
この作業は
塾の自習でやるわけにはイカンよね。
自宅で一人やるしかない。
コレがワタシの悩み。
毎日単調なことを続けるって
本当に求めてる子じゃなきゃやらないんだよ~。
そうなると結局は・・・
その子の意識を
変えるしかない
ってことになる。